
執筆:CXコンサルティングヘッド ピーター・エイトキン
顧客体験は、広告よりもはるかに強くブランドの印象を形づくります。「意義のある差別性」を感じさせる体験を提供できるブランドこそが、持続的な成長を実現し、競合では到底真似できない価格プレミアムを築き上げていくのです。
2000年代初頭、私の住む郊外の街にスターバックスがやって来たとき、あの紫のアームチェアは単なる家具以上の存在でした。初めてその店に足を踏み入れた瞬間の、五感を揺さぶるような衝撃は今でも鮮明に覚えています。エスプレッソマシンから立ち上がる蒸気が生み出すダイナミックな音、コーヒーの上に高くそびえ立つホイップクリーム、そして店内に満ちる豊かな香り ―― それらすべてが、その街では体験したことのない空間をつくり出していたのです。
あの紫の椅子は、ただの椅子ではなく、特別な意味を持っていました。それは、家でも職場でもない“サードプレイス”としての心地よい空間 ―― 友人と語り合いながら、ゆっくりと冷めていくコーヒーを味わい、何時間でも過ごせる場所を象徴していたのです。そして何より印象的だったのは、その体験が世界中どこでも変わらないことでした。イギリスでもチリでも、訪れた瞬間にほっとするような、そのブランドならではの安心感が、変わらずそこにあったのです。
それから20年。スターバックスは世界で38,000店舗以上へと成長を遂げました。しかし、あの象徴的な紫の椅子とともに、何か大切なものが少しずつ失われていったのです。NPS(ネットプロモータースコア)はむしろ向上しているにもかかわらず、ブランドパワーや差別性は低下し、結果として業績も思わしくないものとなっていきました。新たにCEOに就任したブライアン・ニコル氏も、「私たちは原点から少し離れてしまった、という共通認識がある」と率直に認めた通り、ブランドの軸がぶれてしまっているのが現状です。
顧客満足度が高まっているにもかかわらず、ブランドパワーが弱まっている状況 ―― この矛盾は、企業にとって極めて本質的な問いを投げかけています。そもそも、強いブランドとは何によって生まれるのか。そして顧客体験は、長期的なブランドの成長をどのように支えているのか。
ブランド強化の主役は、「体験」である
長年にわたり、企業はブランド構築のために広告へ多大な投資を行ってきました。しかし、調査では、体験は広告よりもはるかに大きな影響力を持つという事実が明らかになっています。ペイドメディアがブランド形成に貢献するのはわずか25%に過ぎず、残りの75%は、それ以外の接点 ―― すなわち顧客との「体験」によって生まれています。なかでも、実際の顧客体験や口コミは、その中核を占め、ブランドに対する印象の約50%を形成しているのです(Kantar, 2023)。
この傾向は公共事業分野において顕著に現れています。ブランドに関する記憶の55%が顧客体験から生まれており、テレビ広告やソーシャルメディアよりも、むしろアプリの方が、はるかに強く印象を残しているのです。人々が日常的に電力使用量を確認するたびに触れるそのアプリ、そのデザインや機能性こそが、広告以上にブランドの印象を決定づけるものとなっていて、ブランドは「見せる」ものではなく、日々の体験の中で“感じられる”ものへとシフトしているのです。
たとえサポートへの問い合わせのように頻度の低い接点であっても、その一度のやり取りが、心に残り続ける記憶となり、ブランドの印象を長期間にわたって左右することがあります(Meta-analysis of Kantar Utilities Touchpoint Studies, 2018-2023)。
オクトパス・エナジーは、このアプローチがいかに有効であるかを体現しています。2019年以降、大規模なテレビ広告に頼ることなく、英国で市場シェアトップのエネルギープロバイダーへと成長しました。その原動力となっているのは、顧客の記憶に残る独自の体験設計です。たとえば、退屈になりがちなメーター検針をゲーム化した「Wheel of Fortune」は、単なる作業を顧客が楽しめるものに変えています。さらに、カスタマーサービスも従来の部署ごとの分断型ではなく、「ユニバーサル・エナジー・スペシャリスト」と呼ばれるチーム体制を採用し、部門をまたがる複雑な課題にも一貫して対応できる仕組みを整えています。
人がブランドを構築する方法は、鳥が巣を作るプロセスに似ている。それは、日々偶然出会う『小枝』や『木くず』をひとつひとつ集めて作り上げていくようなものだ。
ブランドの分野で広く認知され、強い影響力を持つ第一人者ジェレミー・ブルモアは、以下のように述べています。
「人がブランドを構築する方法は、鳥が巣を作るプロセスに似ている。それは、日々偶然出会う『小枝』や『木くず』(=小さな体験)をひとつひとつ集めて作り上げていくようなものだ。」
私たちの心の中にあるブランド像は、小さなひとつひとつの体験によって少しずつ形づくられていきます。あらゆる接点が、認識という巣に「一本の小枝」として加わっていくのです。だからこそ、顧客体験を“最大のブランド構築の機会”と捉える企業は、競合との優位性を手にすることができるのです。
成長を予測する「差別性」の力
ブランドの成長性を予測するうえで、最も有効な指標は何でしょうか。多くの企業は顧客満足度やNPS、市場浸透率に目を向けがちですが、私たちの調査が示した答えは、少し意外なものでした。
それは「差別性(Difference)」です。
1万近くに及ぶブランドのデータを分析した結果、競合と明確な「差別性のある」ブランドは、4倍もブランド成長しやすいことがわかりました(Kantar BrandZ, 2023)。
さらにこの結果は、オックスフォード大学サイード・ビジネススクールによっても独立して検証され、「差別性」がブランド成長を予測する最も強力な指標であることが裏づけられています。
公共事業分野のように、商品がシンプルで価格での差別化が難しいカテゴリーでは、特に体験の質が決定的になります。 カンターの顧客意識データと、イギリスのガス・電力規制機関Ofgemの市場シェアデータを突き合わせた分析では、ブランドの「差別性」に対する顧客の認知が、その年の顧客数の変化の82%に貢献していることが明らかになりました。つまり、競合との間に「意義のある差別性」を感じさせる体験こそが、オクトパス・エナジーの成長を牽引した最大の要因だったのです(Kantar Energy Provider Analysis, 2024)。
「差別性」を備えたブランドは、単に顧客を惹きつけるだけではありません。価格をコントロールする力も生み出します。ストリーミングサービスの中で最も「差別性」があると認知されているネットフリックス(Netflix)は、価格を引き上げながらもそのユーザー数を維持しています。それは、独自のコンテンツと体験が、消費者の「価格に対する感度」を下げているからです。
さらに、「差別性」を備えたブランドは顧客のロイヤルティも強化しています。イギリスの銀行Nationwideの調査では、 自社の体験で他社との「差別性」を感じている顧客は、他行へ乗り換える確率が50%低いことがわかっています(Kantar CX Benchmarking, 2023)。機能面では多くのサービスが似通ってしまう時代において、「意義のある差別性」を感じさせる体験は、単なる価格競争では崩れない強固な競争優位となるのです。

「意義性」と「差別性」のバランス
単に「他社と違う」だけでは、持続的な成長にはつながりません。本当に強いブランドは、顧客のリアルなニーズに応えながら、独自の方法でそれを実現する ―― つまり、「意義性」と「差別性」の両立を達成しています。
スターバックスの事例は、そのバランスが崩れたときに起こることを示しています。事業を拡大し、商品ラインナップや購入方法を増やすことで利便性は高まりましたが、かつての“特別さ”は薄れ、結果として「意義はあるが、記憶に残らないブランド」へと変化してしまいました。その結果、満足度は上がっているにもかかわらず、ブランド本来のコアの力や差別性は低下し、業績も伸び悩み、最終的には見通しの修正を余儀なくされています。
一方で、スーパーマーケットチェーンのアルディ(ALDI)はまったく異なる道を歩んでいます。2015年4月に5.3%だった市場シェアは、2025年には11%へと拡大しています。「意義性」と「差別性」を両立しながら成長を実現しています(Kantar Worldpanel UK, 2023)。
実際に買い物をしてみると、その違いが体感できます。アルディは商品数をあえて絞ることで、選択の迷いを減らし、買い物をシンプルにしています。さらに、レジでの体験も特徴的です。通常はプレッシャーを感じやすい袋詰めの場面を、いったん商品をすべてカートに戻し、専用のスペースでゆっくり整理できる仕組みにしています。この小さな工夫が、ストレスを減らしながら効率を高め、まさに「意義のある差別性」を備えた体験です。
アルディは店舗数を拡大し、より顧客にとっての「意義性」を高めていく過程でも、品質と価格(バリュー)に対する独自のスタンス(差別性)を決して崩しませんでした。
CEOのジャイルズ・ハーリーは次のように述べています。
「イギリスの買い物の仕方は、この18か月で大きく変わった。来店頻度は減り、プライベートブランドが増え、より良い価値を求めてスーパーを使い分けるようになっている。」

「意義のある差別性」を備えた体験を構成する6つの要素
成長を生み出す体験を設計するためには、「意義のある差別性」をどのように生み出すのかを理解するフレームワークが欠かせません。カンターでは、そのための6つの重要な要素を特定しています。
「意義性」を生み出す要素
1. 効果:ブランドの価値を確実に届け続けること
2. 簡単:ストレスを感じさせない、スムーズで心地よい体験をつくること
3. 共感:顧客の気持ちに寄り添い、つながりと信頼を築くこと
「差別性」を生み出す要素
4. 本物らしさ:ブランドの核となる価値に忠実であり続けること
5. ユニーク性:他では得られない体験を提供すること
6. インスピレーション:心を動かし、記憶に残る特別な瞬間を生み出すこと
オクトパス・エナジーは、上記の要素が実際のビジネスの中でどのように機能するのかを見事に示しています。顧客志向で編成されたチームはブランドの価値観を体現し、ユニークな仕組みが記憶に残る体験を生み出しているのです。
私自身の体験が、それを何よりよく物語っています。我が家のメーターは地下室にあり、裏口を出てデッキを通り、二つの鍵を開け、暗闇の中で電気のスイッチを探す ―― それだけで検針は大きなハードルになっていました。ところが、オクトパス・エナジーの「Wheel of Fortune」機能は、この面倒な作業を、最大512ポンドの賞金が当たる“ゲーム”へと変えてしまったのです。その結果、どんなに手間がかかっても、今では定期的に検針を行うようになりました。
この小さなイノベーションが、既存の常識を覆している点も魅力的です。他のエネルギー会社であれば、「検針のためにお金を配る?」と一蹴してしまうでしょう。
しかし、この一見遊び心のある仕組みは、実は連鎖的な価値を生み出しています。請求の精度が上がり、問い合わせやクレームも減少し、結果として顧客離脱率の低下へとつながっているのです。そして何より重要なのは、この体験が強く記憶に残り、オクトパス・エナジーというブランドを際立たせていることです。
退屈な作業を“ゲーム”に変えた「Wheel of Fortune」―― その一工夫が、顧客の行動意識を根本から変えてしまったのです。
測定からアクションへ:顧客体験がブランド成長をつくる
多くの企業は、顧客体験をCSAT(顧客満足度)やNPSで測り、一方でブランドの健全性(ブランドヘルス)は別の指標で管理しています。しかし、この“別管理”が、体験がどのようにブランド認識を形づくり、ビジネス成果にどうつながっているのかを見えにくくしているのです。
より効果的なのは、体験をブランドと同じ視点で捉えること。つまり、各タッチポイントがどのように「意義のある差別性」を備えた体験を生み出しているかを理解することです。それができれば、企業は短期的な満足だけでなく、長期的なブランド価値の強化にも投資できるようになります。
そのビジネスインパクトは明確です。顧客体験を2年間で改善したブランドは、市場シェアを大きく伸ばす可能性が2.5倍高いことが示されています(Kantar BrandZ Experience Analysis, 2023)。
「意義のある差別性」を備えた体験を作りだすためには「一貫性」もまた重要な要素です。私たちが「感情的一貫性(エモーショナル・クラリティ)」と呼んでいるもの(ブランドの個性がすべてのタッチポイントでブレずに表現されている状態)、これを実現しているブランドは、「差別性」のスコアが平均より13ポイント高いという結果が出ています(Kantar Brand Expression Study, 2023)。これは偶然生まれるものではなく、顧客とのタッチポイントそのすべてにおいて、「感情的一貫性」を意図的に設計し続けることが求められます。
「意義のある差別性」がもたらす、未来でブレないブランド戦略の構築
顧客が「どこにお金を使うか」をこれまで以上に慎重に選ぶようになっている今、「意義のある差別性」を備えた体験を生み出すことは、もはや“成長のため”だけではなく、“生き残るため”に不可欠な条件となっています。これから生き残っていくブランドには次の3つを理解しています。
1. ブランドの立ち位置を理解し、成長機会につなげている
2. 顧客にとって本当に重要なポイントを見極め、そこに「差別性」を集中させている
3. 今と未来、短期的な満足と長期的なブランド構築へのCX投資を行っている
2000年代初頭のスターバックスにとって、あの紫の椅子は単なる家具ではなく、「差別性」そのものを象徴する存在でした。アルディにとっては、独自のチェックアウト方法がユニークな体験を生み出し、オクトパス・エナジーにとっては、組織の都合ではなく、顧客志向に基づいてすべてを設計することが、ブランドの「差別性」を生み出しています。
すべての企業が自らに問いかけるべき、極めてシンプルな問いがあります。――「そのブランドの顧客体験は、ブランドを差別性のあるブランドとして感じさせているか?」もし答えがノーであれば、いま市場で戦っている軸は、おそらく価格や利便性だけになっているでしょう。その軸は、現代において非常に不安定で脆い軸かもしれません。
いまや、機能的な優秀さはどの業界でも“当たり前”の前提条件となりました。体験を通じて生まれる「意義のある差別性」こそが、次なる競争優位の源泉なのです。満足を超え、記憶に残る独自の体験を生み出せるブランドだけが、 これから数十年先も、人々の中で語り継がれていく存在になるのです。